🍰贈答品の食べ物は、儀礼品であり、食べ物ではない2020年12月11日 06:36


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2020年12月11日付のブログ「食べ過ぎるな!」の記事のコピペ。

(ブログ「食べ過ぎるな!」の内容をアサブロに引っ越し中。)



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贈答品の食べ物は、儀礼品であり、食べ物ではない

20201211 

 

年の瀬になると、いろいろと貰い物が増える。


何年か前に、セブンイレブンのセレクトギフト商品のCMで、巨大な生のタラバガニを贈られた家庭の主婦が、死んだ表情で、満杯の冷蔵庫の中にそれを何度も不毛に突っ込もうとするCMを見て、大ウケすると同時に、ようやく受け取る側の身になったセレクトギフト商品が一般的になってきた、と嬉しく思った。

 

地価が高い都市部の住宅は、住居の居住空間もキッチンも冷蔵庫も、常時最大の稼働率で稼働している。 「遊んでいる」スペースは、これっぽっちも無い。 常に経済効率を最大にすることでコストを最少にして回すのが、土地をはじめあらゆる物の値段が高い都市部のエコロジーである。

 

多くの家は、土間なんてないし、庭イコール駐車場である。不用意にバルコニーに置けば、うすぼんやりした人間よりもよほど賢いカラスにたちどころに目を付けられたり、ハトの糞害のリスクが有る。

 

そこに、足のはやい生の果物を何十個も送り付けてきたり、突然「用冷凍」や「要冷蔵」の食品を送りつける行為は、迷惑行為以外の何ものでもない。 

 

気配りが迷惑になることもある。 それぞれが互いに過度に緩衝し合うのを避けて生活している場合もある。 「ご近所におすそ分け...」が、余計な行為となり、かえって迷惑になりかねないこともある。

 

受け取っても放っておける常温保存の食べ物ならまだマシではある。 だが、健康上の理由で食べられない場合は、やはり捨てなければならない。

 

断捨離をしてみて感じるように、捨てることには、パワーを使う。 「食べ物を捨てるなんて....」と罪悪感を持たされることからして、精神パワーの無駄遣いをさせられる。 そして、それを捨てるための労働コストと、費やされる時間コストの無駄。 さらに、捨てる労働にかかった時間が人生から奪われたことによって、他の有益な行為ができなかったという、経済的な機会損失のコスト。 限り有る人生の貴重な時間が次から次に奪われていくという、無駄の連鎖の図式である。 それに、捨てる際にも、生ものは水分が多いので、一度に捨てることすらはばかられる。 物騒なご時世である。 「中に一体何がはいっているのか!?」と、不振に思われるかもしれないという、まったくもって無意味で無駄な配慮リスクが生じるからだ。

 

という精神パワーを、今期は今のところ2度使って、頂き物の食べ物を捨てている。 「もったいながり屋」の旦那が見たら「僕が食べるよ」と面倒なことになるので、旦那に見つからないようにコッソリ捨てる。 一度に捨てるとゴミ袋が重くなり過ぎるから、数回に分けて捨てる。 ゴミは、人生の時間を奪う。

 

迷惑な行為とは、人の有限で貴重な人生の時間を平気で奪うことである。

 

「良かれと思って送ったのに...」という言い訳は、送る側の自己満足でしかない。

 

だから、受け取る側は、送る側の自己満足に義理立てして、自分の精神的&物理的&時間的なコストを不毛に奪われるのに付き合う必要は、これっぽっちも無い。 もうすでに、相当な精神的+物理的なコストを払わされているのだから。 捨てるだけでも、十分迷惑を被っている。

 

贈る場合は、受け取った側が商品を選べるカタログギフトにするのが、最もスマートな方法だと思う。

 

そうでない場合は、もらう側が罪悪感なく気軽に捨てられる物を贈るのが良いと思う。

 

「造花や置物といった物理的な「物」には、その人の趣味があるから」は、もはや過去の話だ。

 

みうらじゅん氏が言うところの「いやげ物」のようなハズしたお土産や、王様のアイディアで売っているような意味不明の物品は、受け取った人が包みを開けた瞬間に「なにこれ?」とひとしきりウケてから、「趣味に合わない」と、笑いながらポイと捨てられる。 受け取った人にひと時のエンターテインメントを提供するし、捨てる罪悪感を強要しないから、よっぽどマシな贈り物である。

 

それに対して、

 

アレルギーや生活習慣病など、様々な健康の諸問題が渦巻く今日では、

 

「食べて無くなるから」で食べ物を贈るのは、受け取る人の胃袋に消えればいいという、先方の胃袋をゴミ箱扱いする非常に無礼な行為であるばかりか、先方の健康を害しかねない、大変に迷惑な、というか、先方の存在を攻撃する行為になり得る。

 

そのうえ、「食べ物だから捨ててはもったいない」という罪悪感を先方に強要する。 もはや贈答ハラスメントである。

 

ギフトや贈答品は、儀礼の品なのだから、気持ちが伝われば何でもいい。

 

可能であれば、物ではなくてカードやメッセージを送れば、贈る側も、受け取る側も、人生に関するコストが最小化できる。 気持ちはプライスレスである。 値が付かないから、値が付けられない。 最も貴重な贈り物だ。

 

贈答品に何か金銭的な価値をつけなければならない場合、いちばんいいのは現金である。

 

「現金なんて失礼な!」ではない。

 

受け取る人が何にでも好きなように使うことができる現金は、

 

受け取る人の存在を最もリスペクトしたギフトだ。

 

子どもにお年玉を平気であげるんだから、

 

大人に「ご挨拶玉」や「ギフト玉」を贈って何が悪い?

 

そうでなければ、前述した、先方に選択の自由もお贈りするカタログギフトが望ましい。

 

先方にとって無駄なものや、要らないものを贈ることは、その人の時間やスペースを奪う。

 

それが食べ物であれば、善良な人に「食べ物を捨てるのはもったいない」という気持ちを強要し、彼らの胃袋をゴミ箱化させ、ひいては、その人の健康を、人生のプレシャスな時間を奪い、その人の存在を傷つけることにつながる。

 

私は、そんな儀礼の品に自分の健康や人生のプレシャスな時間を奪われたくないので、積極的に捨てる。 私の存在は、数千円の儀礼の品よりも、計算不能なほど尊い。

 

インスタ映えを狙って撮ったあとの食べ物を捨てることが批判を受けるが、食べ物を作る側も、インスタ映えを狙って買ってもらうような品を作るという背景もある。 この場合の食べ物は、もはや食べ物ではない。 食べ物の姿をした雑貨である。 雑貨と思っているから、写真を撮ったらロクに食べずに平気で捨てる。 往々にして、そのような食べ物の成分表示を見ると、ゴミのような成分が多分に入っている。 「なんてもったいない!けしからん!」ではない。 もともと雑貨なのだ。

 

飽食の時代を生き抜く知恵は、自分にとって「食べ物」の姿をしたゴミや雑貨を見極めて、それを食べずに捨てる勇気だ。 内なる声が、私の背中を押す: 

 

 

食べすぎるな!

二口女(ふたくちおんな)


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