🗻未来に残したい日本のアイテム: おぎのや「峠の釜めし」の益子焼容器 ― 2023年12月20日 20:23
🗻未来に残したい日本のアイテム: おぎのや「峠の釜めし」の益子焼容器
峠の釜めしの容器といえば、
昭和の高度成長期の軽井沢マイカー旅行だった。
関越自動車道からのバイパスなんて無かった時代、
もちろん、新幹線は東海道しか走っていなかった時代。
別荘族とは大違いの、週末だけのケチケチ軽井沢旅行を終えた、
曲がりくねった碓氷峠をノロノロ渋滞で超えていく昭和の庶民家族のマイカーが、
道端のおぎのやの駐車場にどんどん吸い込まれていった。
判で押したように買ったのが、おぎのやの峠の釜めしだ。
まだ暖かい峠の釜めしを家族の人数分、クルマに積み込んで、
いつ帰宅できるかもわからない、首都圏へ向かうノロノロ渋滞に、
ふたたび巻き込まれていくのだった。
家に帰って家族で食べる峠の釜めしの味は、格別だった。
なんの変哲もない、ふつうにおいしい味なのだが、
これを食べると
「ああ旅行から帰ってきた~」としみじみと感じられるのだった。
ささやかに添えられた 「香の物(こうのもの)」が、ちょっぴり嬉しい、
峠の釜めしと、
即席の味噌汁だけの夕飯を、家族でかきこむのだった。
ところが、いざ食べ終わって翌日になると、
空になった峠の釜めしの容器が、否応の無い存在感で
台所を圧倒し始めるのだ。
4人家族分の、峠の釜めしの容器本体と、ふた。
昭和の頃は、ゴミの分別なんて当初は無かったし、
だいたい、戦中戦後のモノの無い時代のトラウマを負った
当時の主婦は、「もったいないから!」と、
なかなか捨てられないのだった。
そして、
「なにかになるから!」と言って、しまい込むのだが、
なにかになったためしは、一度もないのだった。
かくして、峠の釜めしの容器とふた4つずつが、
さいしょは、食器棚の奥の方に重ねて置かれていたのだが、
全く使われることもなく、一年が過ぎ、
また翌年になって、
また軽井沢に庶民のマイカーケチケチ旅で行って、
民宿や「貸別荘」に泊まり、
再び帰りに、峠の釜めしを人数分買って、
家に帰っていくのだった。
これを3年も繰り返すと、
峠の釜めしの空き容器とフタが増殖して、
食器棚のかなりのスペースを占領することになり、
「なにかになるから」としまい込み続けた母親も、
さすがに邪魔なので、捨てればよいのだが、
やっぱり「もったいないから」と、捨てられず、
何かに再利用できないかと、あれこれ思案して
考え付いた定番の再利用法が、
郊外の新興住宅地にローンを組んでやっとこさ買った
建売り一戸建て住宅についている、
猫の額ほどの庭の、芝生の隅をはがして
申し訳程度にこしらえた「花壇(かだん)」の
ふちどりに、
峠の釜めしの空容器を上下逆さまに伏せて、並べるのだった。
だが、明らかに苦肉の策の再利用感がいっぱいの、
もともと花壇の縁石ではない峠の釜めしの空容器の底が
いびつにポコポコと並んだ花壇は、
チープ感が物凄く、
ますます庶民の哀愁が漂うのだった。
峠の釜めしの荻野屋は、
時代の変化を生き残り、
今は、銀座にも出店しているそうだ。
ゴミ分別が進んだ現在は、空容器は不燃ごみに出せるだろう。
民事再生法を申請した益子焼容器の会社も
生き残っているようだ。
峠の釜めしの容器といえば、
昭和の高度成長期の軽井沢マイカー旅行だった。
関越自動車道からのバイパスなんて無かった時代、
もちろん、新幹線は東海道しか走っていなかった時代。
別荘族とは大違いの、週末だけのケチケチ軽井沢旅行を終えた、
曲がりくねった碓氷峠をノロノロ渋滞で超えていく昭和の庶民家族のマイカーが、
道端のおぎのやの駐車場にどんどん吸い込まれていった。
判で押したように買ったのが、おぎのやの峠の釜めしだ。
まだ暖かい峠の釜めしを家族の人数分、クルマに積み込んで、
いつ帰宅できるかもわからない、首都圏へ向かうノロノロ渋滞に、
ふたたび巻き込まれていくのだった。
家に帰って家族で食べる峠の釜めしの味は、格別だった。
なんの変哲もない、ふつうにおいしい味なのだが、
これを食べると
「ああ旅行から帰ってきた~」としみじみと感じられるのだった。
ささやかに添えられた 「香の物(こうのもの)」が、ちょっぴり嬉しい、
峠の釜めしと、
即席の味噌汁だけの夕飯を、家族でかきこむのだった。
ところが、いざ食べ終わって翌日になると、
空になった峠の釜めしの容器が、否応の無い存在感で
台所を圧倒し始めるのだ。
4人家族分の、峠の釜めしの容器本体と、ふた。
昭和の頃は、ゴミの分別なんて当初は無かったし、
だいたい、戦中戦後のモノの無い時代のトラウマを負った
当時の主婦は、「もったいないから!」と、
なかなか捨てられないのだった。
そして、
「なにかになるから!」と言って、しまい込むのだが、
なにかになったためしは、一度もないのだった。
かくして、峠の釜めしの容器とふた4つずつが、
さいしょは、食器棚の奥の方に重ねて置かれていたのだが、
全く使われることもなく、一年が過ぎ、
また翌年になって、
また軽井沢に庶民のマイカーケチケチ旅で行って、
民宿や「貸別荘」に泊まり、
再び帰りに、峠の釜めしを人数分買って、
家に帰っていくのだった。
これを3年も繰り返すと、
峠の釜めしの空き容器とフタが増殖して、
食器棚のかなりのスペースを占領することになり、
「なにかになるから」としまい込み続けた母親も、
さすがに邪魔なので、捨てればよいのだが、
やっぱり「もったいないから」と、捨てられず、
何かに再利用できないかと、あれこれ思案して
考え付いた定番の再利用法が、
郊外の新興住宅地にローンを組んでやっとこさ買った
建売り一戸建て住宅についている、
猫の額ほどの庭の、芝生の隅をはがして
申し訳程度にこしらえた「花壇(かだん)」の
ふちどりに、
峠の釜めしの空容器を上下逆さまに伏せて、並べるのだった。
だが、明らかに苦肉の策の再利用感がいっぱいの、
もともと花壇の縁石ではない峠の釜めしの空容器の底が
いびつにポコポコと並んだ花壇は、
チープ感が物凄く、
ますます庶民の哀愁が漂うのだった。
峠の釜めしの荻野屋は、
時代の変化を生き残り、
今は、銀座にも出店しているそうだ。
ゴミ分別が進んだ現在は、空容器は不燃ごみに出せるだろう。
民事再生法を申請した益子焼容器の会社も
生き残っているようだ。
最近のコメント