🌖ニジマス先生 ― 2023年09月01日 04:20
ニジマス先生
20230901
私の人生の師と言える存在がいる。
ニジマス先生だ。
人間ではない。ニジマスである。
それも、半世紀前に存在したニジマスだ。
ニジマス先生は、子供の頃に家族で行った、マス釣り場に居た。
天然の渓流の浅瀬を生け簀(いけす)に仕切ったマス釣り場の、
私たち家族が借りた区画の、ど真ん中に、
ひときわ大型のニジマスが、流れの中でじっと動かずに居るのを見つけた。
他のニジマスは体長20~25cmぐらいなのに、
そのニジマスだけは、体長30cmはゆうに超える大きさに見えた。
いきおい家族全員が、
生け簀のど真ん中に鎮座する、主のような大ニジマスを吊り上げようと、
その大ニジマスの近くに釣り針を落とそうとするのだが、
釣り針を近くに沈めても、その大ニジマスは微動だにせず、
周りにいる小さいザコばかりか針に引っかかってくるのだ。
結局、そのいけすの主を釣りあげることはできなかった。
マス釣り場の生け簀にバケツで追加されるニジマスたちは、
何日もエサを与えられずに、空腹状態で、生け簀に放り込まれる。
だから、目の前においしそうな餌があれば、
空腹に耐えかねて、すぐに飛びついてしまう。
そして、河原で塩焼きにされて、人間のレジャーの生贄になる。
生け簀のど真ん中に居る、その大ニジマスも、
生け簀に放り込まれた時は、極度の空腹状態だったことだろう。
ところが、どういうわけか、その大ニジマスは、
今まで人間が落とす釣り針の餌に飛びつくことをしなかったから、生き延びて、
他のニジマスより一回りも二回りも大きく成長して、
いまや生け簀のど真ん中で主のように居座っている。
そればかりか、この大ニジマスは、
私の記憶の中に、半世紀もずーっと鎮座ましましている。
そして、人生のことあるごとに、
自分を狙い続けるあまたの釣り餌に微動だにしない、
その泰然自若とした姿が、私の脳裏に浮かんでくる。
最近、私は、この記憶の中の主を、「ニジマス先生」と呼び始めた。
ニジマス先生は、私に、この世で生き残る方法を示してくれていると思ったからだ。
世の中は、いろんな存在が仕掛けた無数の撒き餌で満ちている。
そして、お腹ならぬ、心が満たされない者たちに向けて、
彼らを気持ちよくさせたり、彼らの不安を煽ったり、ときには彼らを脅すようなことを言ったり見せたり聞かせたりして、
彼らの心を動かして、彼らの財布のひもが緩むのを狙っている。
釣り針につけられた餌は、とびつきたくなるように、とてもよく設計・開発されている。
これが、人間社会の、サバイバルゲームだ。
「ゲーム」だ。
人間は、それらの撒き餌のうち、いくつかには引っかからなければ、サバイバルゲームに参加を続けられないのが、経済社会の習いだ。
買いたくないけど、義理で買う。
親戚がこの会社に勤めているから、買う。
そして、ほとんどの人が、仕掛ける側にも加担している。
人を堕落させるようなコンテンツでも、健康に悪いと分かっているモノでも、売買手数料が入れば客の資産なんてどうなってもいい商品でも、自分が給料をもらっている会社の商品は、どんどん大衆に売り込み勧める。
人生は、カネを奪うために仕掛け、仕掛けられる、サバイバルゲームだ。
私は、人間のサバイバルゲームに、なんとか生き残れるように、
心の中のニジマス先生を、これからも師と仰いでいきたい。
でも、
ニジマス先生を見習おうと、ガマンガマンで生きてきて、
60近くになったら、すっかり心が枯れてしまって、
目の前の撒き餌に一喜一憂することも、無くなっちゃった。
目の前の撒き餌を見るだけでウンザリするから、すぐに遮断して目の前から消す。
人生の12月に向かって、淡々と生きていくだけ。
できるだけ長く、生きのびていくだけ。
自分の生死に関わらないモノやコトなんて、
もうどうでもいいよ。
どうでもいいよ。
もういいよ。
もう、いいよ。

浅井忠「十二月」(部分) NDLイメージバンク(国立国会図書館)
作品全体図はこちらのURLのどこかにある:
美術文芸雑誌『方寸』|NDLイメージバンク|国立国会図書館
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